合宿でもらった、岸本さんからのはっとするようなキーワード。

なぜかどこにも、誰も書いてないですね。

 

というか私自身、その言葉に激しいショックを受けつつ、なんとかそれを自分の中で咀嚼しようとあがき、あれこれ表現して、うまくいかなかった。あげく、「あれがキーワードでしょう」と岸本さんに指摘されて、そうだ、もとは、岸本さんからもらった、あの一言だと、改めて認める始末。素直に書けばよかった、というのも、合宿後出し日記の反省です。

 

前置き長すぎますね。キーワードはこちらです。

合宿2日目の夜のお蔵入りUSTで、岸本さんが「マスメディア、市民メディア、住民ディレクターの距離が全くなくなった」というようなことをおっしゃいました(一言一句そのままではありませんが意味はそのようなこと)。以前は、発信するほうも受信するほうも、「これはマスメディアだ、これは市民メディアだ、これは住民Dだ」という区別がありました。ところが今は、それが、ない。実は、なくなっている。

….このあたりまで、岸本さんの発言です。私の勝手な解釈が入っているかもしれませんので、違っていたら、岸本さん、ご指摘下さい。

 


どういうことか。私は2日目夜の、お蔵入りUSTをやって、それを痛いほど感じました。

東京にいると、一住民ディレクターのUSTは、比率でいうと、届く範囲がごく限られます。だから自分のやってる行為の重みをダイレクトに感じることが難しい。ところが東峰村では、マスメディアの地上波だろうが、ケーブルテレビ番組だろうが、住民ディレクターのUSTだろうが、2500人強の住民の皆さんにダイレクトに届きます。住民ディレクターのUSTも、直接ではなくても巡り巡って、必要な人にはほぼ100%、届く。良くも悪くも、届いてしまう。

 

これは、いろいろな意味で、ものすごいチャンス。自分の発信が村の中にきちんと届く、というチャンス。いずれ日本全体がそうなっていくであろう、その最先端を、今、東峰村(のような小さなコミュニティ)だからこそ、実体験できる、というチャンスでもある。東京ではこのチャンスの体感は、今はできません。

そしてそんな社会が来たときに、自分の発言ひとつひとつに、どれほどの責任を持つことが必要か。それはコワいことでも何でもなく、そういう態度ですべてに臨めばよいだけの話。間違いなく、今後の社会はそうなる。だから、楽しい。そんな責任感を、今、ダイレクトに感じることができる、チャンス。これまた東京にいては(よほどの有名人でない限り)体感できない。ただし岸本さんは、この点についても、常にそうやって自分の発言、行動には時間軸の先まで考えて責任を持っているとおっしゃってました。ぶれない、ってそういうことですね。

 

 

以上、合宿後出し日記。

「マスメディア・市民メディア・住民ディレクターに差がなくなっている」という岸本さんのキーワードから、私が感じた、東峰村の無限のチャンス。そして自分自身の発言、行動に常に責任を持ち続けることの必要性、楽しさ。そのあたりが甘すぎて、いきなりUSTをお蔵入りさせた、痛すぎる経験からの学びです。