東京で生まれ、東京で暮らしていると、毎年お盆はあまり意識することがないのですが、東峰村の動きを一緒に体験するようになって、改めて子どもの頃のことを思い出しています。

 

まだ母方の祖母が健在だったころ、お盆の迎え火、送り火をきちんとやっていました。遠い日の記憶ながら、しっかり残っています。私の子どもたちは、そういう経験、ゼロ。子どもにあの習慣を伝えなくていいものか。

 

そして今年は、同居していた義母が倒れ、もう、自宅に帰ってくることは難しいという現実に直面しています。そのせいもあるのでしょうか。

 

数日前、私が子どもの頃(実家で)同居していた、父方の祖母が、夢に出てきました。祖母は90歳を超えるまで元気でしたが、最後の最後は自宅での介護が難しくなり、病院に入りました。慶友病院という、非常に手厚い介護で知られる病院でしたが、それでも、おばあちゃんは帰ってきたかったのかな。

 

「ああ、抜け出してきたわ」と、まだ若かりし頃(といっても60代後半)の祖母が、実家の居間に駆け込んできた夢でした。若かりし頃の元気なおばあちゃんが、病院を抜け出してくるというシチュエーションが既に「夢」なのですが、あまりにもリアルで、目覚めてからも覚えていたので、おばあちゃんは今、お盆で、家(実家)に帰ってきてるのかもしれないなと感じました。

 

祖母は、私の祖母の年代でありながら、女子大学を出ています。卒論は源氏物語。年代的に非常に数の少ない卒業生でもあり、原本はいまだに母校に保存されています。祖母の父、私にとっての曽祖父は、昔の一中、一高の校長も務めたこともある人だったそうで、おばあちゃんの嫁入り写真は、それはそれはゴージャスでした。

 

でも戦争で全てはなくなった。私の父(長男)を筆頭に、男ばかり6人の兄弟を戦争中、戦後の混乱期に育てたおばあちゃんは、持っていた着物などを、売り払って食べ物を買ったと、歴史の本に出てくる物語の実践者。洗濯機もない時代。朝から晩まで洗濯していたと、父から聞いたこともあります。

 

そして、しかし。祖母は、子どもたちが大きくなったあとに、高校の国語の教師として、働きはじめました。

70歳近くまで元気に勤務を続け、退職後、父(長男)の住む東京に、祖父とともに、大阪から引っ越してきました。その後は、私たち孫のため、随分ハイカラな料理を研究してはつくってくれたり、複雑な編みこみの柄のセーターやカーディガンを編んでくれたり。本当にモダンなおばあちゃんでした。

同時に「源氏物語研究会」を近所で探してきて、いつの間にか先生役を務めてました。

 

そんな祖母でしたが、私は、同居していた頃、いえ、成人して自分が勤務しはじめても、私はおばあちゃんのそういう生き方を、あまり深く考えることなく、過ごしてしまいました。

 

最近、(おばあちゃんが実家に帰ってきてるのかもしれません^^;)、おばあちゃんは幸せだったかなあ、と考えるのです。女が自己実現するなんて、考えもしない人が多かったであろう時代。そんな時代の中で、確固たる自分の世界も持ちながら、それを主張することはなく、家族に尽くし、いわば残りの時間で「源氏物語の研究」という自分のテーマを追求し続けていた祖母。

 

今、私たちは、やっと「育児」とか「介護」とか「仕事」とか、そういう分類で生活やその人の人生が分断される時代を終えようとしていると感じています。その人の存在すべてが、価値。

 

でも、まだ、萌芽の時代。だから住民ディレクターのネットワークで、そんな生き方を広げる社会づくりをしていきたいのです。私は。

そこで必要とされるのは、おばあちゃんみたいな一人ひとりに、スポットがあたる、そういうメディア。

 

私のルーツは(もちろん母にもあるけど)、この祖母にもあって、だからおばあちゃんは私に何か言いたくて、今年、このタイミングでやってきてくれたのかもしれません。エールを送りにきてくれたのかな。何しろ私、ふつう、夢などみませんので!