岸本さんが、住民制作ドラマの資料を探しておられると拝見し、修士論文から引っ張り出してきました。もとは、もちろん、全部岸本さんから聞いたりいただいた資料です。

 

論文そのものはともかく、「歩み」を振り返った部分は、今後も時々紹介させていただこうかな。

 

資料:「住民の自律と協働を促す映像制作プラットフォーム」(2006年度修士論文)

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 高橋 明子

 

P19~  *以下、論文原文で、岸本さんや住民ディレクターの皆さんは敬称略で失礼しています。

 

2.2.3 住民参画ドラマ制作

取組みの時期が若干前後するが、1989~94年にかけて、岸本が熊本県民テレビで取り組んだ住民参画型のドラマ制作も、住民ディレクターの原点のひとつである。

 

 最初に取り組んだのが熊本の商店街を舞台にした『熊本県民ドラマ「平成元年のタイムスリップ」』(1989年)である。これは、岸本の同期(園田文彰氏)がドラマ制作を希望し、シナリオは園田氏が執筆、監督を岸本が務めたもので、数千万の予算が必要で地方局では到底難しいと言われていたドラマ制作を、スタッフを熊本県民テレビで内部化することで数百万で制作したものである。ドラマの出来映えとともに、その制作手法が当時は大きな反響を呼んだ。

 第1作が反響を呼び、第2作、第3作には1000万規模の予算が集まった。第2作は『企業ドキュメンタリーロマン「赤バス物語」』(1990年)と題して、県内を走るバスを舞台にした企業ドキュメンタリードラマを制作。第3作は『八郎の壺』(1993年、山鹿鹿本広域行政組合と共同制作)という地域の歴史ドラマを制作した。

 

 【新聞記事】村おこしビデオ、地域PRに知恵競う-ドラマ仕立て人気 1993/07/12, 日本経済新聞夕刊     

 おらが町や村の観光名所、特産品などを映像で紹介したむらおこしビデオに、ユニークな作品が続々と登場している。ドラマ仕立てあり、UFO(未確認飛行物体)ものあり、コンピューターグラフィックス作品あり、と手法もさまざま。話題づくりにも一役買うこの面白ビデオ、果たして視聴者の心をつかむことができるか。(中略)

  同じドラマ仕立てでも熊本県の山鹿鹿本広域行政事務組合が企画したビデオ「八郎の壷(つぼ)」は地元の民放で放送された本格的なものだ。この事務組合は山鹿市と周辺五町の鹿本郡市が対象。自治省の「ふるさと市町村圏事業」の指定を受けたのを機に、昨年四月にドラマ制作に取り掛かった。ドラマは自由民権運動の推進者で、西南の役で戦死した郷土の英雄、宮崎八郎が残したとされる壷をめぐり、サスペンスタッチで展開する。鹿本郡市の美しい自然を背景に、現代から明治、さらには古墳時代にまでさかのぼり、やがて不老不死伝説につながっていく……。主役、準主役はプロの俳優だが、それ以外の役は公募で選考。熊本県民テレビに制作を委託し、事務組合がスポンサーになって昨年十月十日の体育の日にお茶の間に流れた。その後、評判を聞きつけて、日本テレビや読売テレビなど全国十四の放送局でも放送された。制作費はスポンサー料も含めて千二百万円。事務組合事務局の阪梨健氏は「宣伝効果を考えれば安いもの。今のところ経済波及効果は出ていないが、今後観光客の増加などを期待したい」と力を込めて話す。

—引用ここまで— 

 

 第4作が免田町を舞台にした『クマソ復権ドラマ「テレビドラマをつくろう!』(1994年)である。これは「テレビドラマを作ろう」というテーマのもと、クマソには関心のなかった高校生が自分のアイデンティティを発見していく過程をドラマにするという劇中劇を、ドラマ化したものである。

  撮影、監督などはすべてプロが務めたが、企画原案、出演、衣装、撮影時の賄い(食事)はすべて免田町民が担った。岸本は「準備を含めれば1年間、町の中がお祭り状態だった。撮影時は2週間合宿して同じ釜の飯を食べ、プロと町民が融合したと思った」と語る。地方制作のドラマながら、各種全国メディアで取り上げられたほど、反響も大きかった。 ところが数ヶ月後に訪問した際、町民から「やっぱりあそこはそうじゃなかった」「あそこはこうしたかった」という話が出た。岸本は、「あれだけの時間を共有したのに、終わって数ヶ月たってやっと、あれは違うという形で本音が出てきた。プロが住民に代わって表現することには限界がある」と痛感し、カメラを住民に渡してしまう「住民ディレクター活動」への着想をいよいよ深めたと言う。

 

【雑誌記事】 免田町 町おこしの様子をそのままドラマ化  1994/4/4 週刊 アエラ 

 熊本県免田町が1500万円をかけて作ったテレビドラマ「テレビドラマを作ろう!」の試写会が、3/25、東京の銀座熊本館で開かれた。大和朝廷と勢力を競った熊襲の拠点があった町とされる免田も、今は再審で無罪になった免田栄氏の出身地として知られる程度だ。

  熊襲の時代のように、免田から情報を発信し、人口6,300の町を活性化させようと、93年秋、54分のドラマ作りが始まった。出演者、制作スタッフは町民からの公募。町おこしに奔走する様子が、そのままドラマ化され、笑いをさそう。

  地元での放映は、1月29日に終わった。制作を担当した熊本県民テレビの岸本晃プロデューサーは、「町の人たちの気持ちを一つにして撮る、という過程を大事にした。こういう試みをしている町があることを、多くの人に知ってもらいたい」

—引用ここまで—

 

 以上検討してきたような住民参画型番組の手応え、及びデジタルビデオカメラ、パソコンによるノンリニア編集の出現、1990年代後半のインターネットの登場を背景に、岸本は「誰もが映像制作に参加できる」時代の到来を確信し、1995年10月に熊本県民テレビを退社した。そして翌1996年4月に、まち創り応援団プリズムを任意団体として立ち上げ、映像情報発信を経験することで企画力を養う「住民ディレクター活動」のプロデュースを開始した。その後1999年8月にはプリズムを有限会社化した。